高校時代にラグビー部の友達がアルバイトをしていたので、紹介してもらいました。西武球場のビールの売り子です。
地元の武蔵村山市はホープ軒で有名です。➜ホープ軒へ 都営村山団地が当時、都内一の規模の団地が出来て、その頃に入居した人たちの子供が同年代に多いです。そんな子供たちから支持を得ようと、点々としていたプロ野球のライオンズが隣町の所沢にやって来ました。
西鉄ライオンズ 1951-72年
太平洋クラブ・ライオンズ 1973-76年
クラウンライター・ライオンズ 1977-78年
西武ライオンズ 1979-2007年
埼玉西武ライオンズ 2008年-
中学のクラスには、西武ライオンズの友の会に入ってる友達が何人もいました。年会費を払うと何回でも試合を観戦出来ます。小中学生1,500円とかと言っていた記憶があります。ライオンズの野球帽も貰えるのでかなりお得だったと思います。手塚治虫のジャングル大帝レオがチームのシンボルになり、子供たちをターゲットにした戦略が成功したと思います。
そんな地元のプロ野球チームですが、テレビでは観られないし、全く興味ありませんてした。ところがビール売りのアルバイトをしてからは一転、熱烈なファンとなりました。毎日のように観ていると自然に選手の名前を覚えるし、次第に好きになるものです。この頃が西武黄金時代の幕開けです。
西武球場のある所沢は、車で15分くらい、自転車でも30分くらいです。狭山丘陵にあるので行きは上り坂です。部活が終わってからナイターのアルバイトに行っていたので、いつも時間ギリギリで、坂道を自転車で上っていました。ママチャリだったし足腰が鍛えられました。3回終了前までに受付出来れば、仕事が出来ました。
ビールの売り子は、今では可愛い女の子が背中にビール樽を背負って生ビールを売っていますが、この頃は瓶ビール(中瓶500㎖)を駅弁売りのようなトレーに積んで売っていました。肩紐をかけてお腹の前でかつぎます。20~25本、混雑時は30本積むので0.5kg * 20 = 20kgくらいになりアルバイトは野郎ばっかりでした。
初めた頃は試合終了には足腰がへとへとで、8回くらいになると秘密の隠れ家に座り込んで休んでいました。瓶に残ったビールを喉がカラカラだったので頂きました。徐々に慣れてくるもので、腰、足腰がかなり鍛えられました。アルバイトを始めた夏休みを過ぎると、お客の入りも少なかったのですが、プレー・オフには通路にも人が溢れるくらいの満員御礼でした。身体が慣れると歩き周って売るのにも余裕が出来てリピーターを覚えてタイミングを合わせたり、売り上げが伸びました。アルバイトの給料は定額の出勤手当てと売り上げの歩合制です。
圧倒的なシェアを誇っていたキリンビールだったので、『キリンビールいかがですか~』と大声を張り上げれば、大入りの時は飛ぶように売れます。コツをつかんだ日本シリーズはデーゲームだったのですが、理由を作ってアルバイトに励みました。日本シリーズを無料で観れて給料を貰えるなんて、夢のような仕事でした。実はビールを売るコツは下りは早く下りて、上りの時にお客さんの顔を見ながら売り歩くと売れるのです。だから試合はじっくり観ることはできませんが、ついついチャンスの時は試合に観入ってゆっくり下っちゃいます。
身体的には足腰、売り上げを伸ばす営業テクニック、おつりを間違えない計算力が鍛えられました。そんなキリンビールが今でも大好きです。
➜昔ながらのキリンビールはこちらから